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なぜ顧客理解に「定性分析」が必要なのか?/小川 育男

2025.09.02 COLUMN

#ビジネス戦略#事業開発#新規事業#書籍

なぜ顧客理解に「定性分析」が必要なのか?/小川 育男

2014年に『起業家はどこで選択を誤るのか』(発行:英治出版)という本を翻訳出版しました。原題は『The Founder’s Dilemmas』、著者はノーム・ワッサーマン(Noam Wasserman)というハーバードビジネススクールの先生で、同校での講義をもとに書かれた本です。

さて、その『起業家はどこで選択を誤るのか』ですが、その大きな特徴の一つが、「定性分析」と「定量分析」を組み合わせているところにあります。
ここでは、この書籍を題材に、数値化できないデータや現象を対象にした分析方法である定性分析と、数値データを使った分析方法である定量分析について考えていこうと思います。

ハーバードビジネススクールといえば、ケースメソッドというスタイルが有名です。先生が何らかの事例をもとに作成したケーススタディを生徒があらかじめ読んできて、その内容についてみんなで議論していくというスタイルです。

『起業家はどこで選択を誤るのか』にも著者が書いたケーススタディがもとになっている記述が多くあります。 私も翻訳作業の参考資料として主要なケーススタディを取り寄せて読んだりもしていました。

ケーススタディというのは定性分析の一つです。
たとえば、「ひとりの起業家にフォーカスして、彼/彼女がどのように事業を築き、その過程でどんな課題にぶち当たり、それを克服しようとしたか」について、定性的に記述されているのがケーススタディです。
厳密にいえば、ケーススタディ自体は記述であり、分析ではなく、そのケースを題材に学生たちの議論の中で分析されていくという意味での定性分析です。

一方、『起業家はどこで選択を誤るのか』では、定量分析の成果も惜しみなく披露されています。著者が10年間、シリコンバレーの起業家たちに毎年実施したアンケートの集計結果です。
内容はもちろん、そのアンケートの実施方法も絶妙でした。書籍の最後に実際のアンケートも翻訳しましたが、かなり詳細で項目数も多く、忙しい起業家たちがすべて答えるとは思えない内容です。しかし彼らはそれに答えました。著者は集計結果をアンケートに答えた人たちだけにフィードバックしたからです。

例えばアンケートの中には、給料に関する項目がありました。今ほどスタートアップ系のメディアやサービスが充実していなかった頃なので、みんながスタートアップの幹部や従業員にいくら払っているのか分からなかったため、それは喉から手が出るほど欲しい情報だったのです。少し話が逸れましたが、そのような貴重なアンケートを集計した定量分析も載っています。

こういった定性分析と定量分析をうまく組み合わせて、起業家が陥りがちな課題を記述していく、それがこの書籍の大きな特徴の一つです。

ここで、少し話を一般化させましょう。
新規事業の企画や新領域への進出などを検討するときには、マーケット分析をおこない、多くの場合、定量分析が重視されます。
スタートアップのピッチでよく見かけるのが、SOM、SAM、TAMといった市場規模です(SOM:Servicable Obtainable Market、SAM:Servicable Available Market、TAM:Total Addressable Market)。私はいつも不思議に思っていました。「これ、起業家にとって本当に役に立つんだろうか」と。

もちろん、一定の意味はあります。自分たちが提供しようとしているサービスが獲得できる市場規模はどれくらいなのか、それを算出するためには顧客を良く知らなければいけない。顧客が使える予算はいくらだろうか、競合(代替)サービスにいくら払っているんだろうか、などなど。それらが算出根拠になるので、起業家自身が知ろうとする動機にはなります。

とはいえ市場規模の話がスタートアップのピッチによく出てくるのは、主に投資家、特にVC(ベンチャーキャピタル)の方々のためなのだと思います。
そもそもピッチは資金調達のために投資家に向けておこなうことが多いですから、そのニーズに合わせるのは大事です。実際、彼らは市場規模の算出を求めがちです。ではなぜ投資家、特にVCが市場規模を求めるのか。それは彼らが統計の発想でのビジネスモデルで動いているからなのです。

当然のことながら定量分析は、統計学に基づいて行われます。投資家、もっと広く言えば、金融も、ビジネスモデルの根幹は統計学です。たくさんの人にお金を提供し、戻ってきたり戻ってこなかったりという確率的な計算をしつつ、リターンを最大化しリスクを最小化する選択を行う。その計算は、どこまで意識的に行うかは別にして、統計学に基づいています。

一方、起業家、特に初期段階の起業家にとって重要なのは、顧客理解であり、広く言うと、顧客の置かれた状況の理解です。そしてその理解に重要なのは定性分析であり、顧客の振る舞いや課題などを定性的に記述し、そこで実際何が行われているのかを解釈する、そういった分析です。それらを適切に理解してこそ、本当に役に立つサービスが構築・提供できる。そこに必要なのは、統計学ではなく、現象学やエスノグラフィーやエスノメソドロジー と言った、人の振る舞いや感じ方をその人の目線で分析する方法論です。(ちなみに、現象学は哲学、エスノグラフィーは人類学、エスノメソドロジーは社会学からそれぞれ出てきた流派ですが、ここではそれぞれに深入りするのは止めておきます。) 

マーケット分析といえば、顧客の状況を理解すべく統計情報やアンケートを実施すべきだと思うかもしれません。「それも顧客理解のためだし、それによって顧客の状況が分かることも多いはずだ」、「そんな聞いたこともない学問を持ち出さなくても、統計学で十分なんじゃないか」と思うかもしれません。しかし、ここで問題になるのは、パターン化もしくはグループ化といった抽象化についてです。

冒頭で例に出したケーススタディを思い出してください。ケーススタディは特定の起業家にフォーカスしていますが、「その事例はその人だけにしかあてはまらないのでは?」と言えばそのとおりかもしれません。

たとえば、起業家向けのサービスをつくるために彼らの陥りがちな傾向が知りたいとすれば、ひとりのケースしか見ないのは不十分なように思えます。そこで「なるべく多くの同様な状況の人たちにアンケートをとって集計しよう」、「彼らの陥りがちな課題をパターン化したほうがよい」となり、これがケーススタディ等の定性分析だけでなく、アンケート等による統計的な定量分析を行う根拠です。

しかし、ここで気をつけなければいけないのは、パターン化もしくはグループ化をするにあたり、何らかの恣意的な抽象化、つまり、意図せず何かの要因の切り捨てが行われている可能性があるということです。

たとえば提供しようとしているサービスが念頭にある場合、気づかないうちにそのサービスにとって都合の良い要因の選択を行ってしまっている可能性があるということです。そうすると、顧客の本当の課題に気づけなくなってしまいます。

自分たちのターゲットとなる顧客がどんな環境で過ごし、自分たちが解決しようとしている課題をどう克服しているのか。その既存の解決策にはどんな問題があるのか。そういったことをアンケート項目として事前に用意するのは至難の業です。

少し整理をすると、ここでは分析が三つに分かれています。定性分析(記述・解釈的顧客理解)、プチ定量分析(統計的顧客理解)、定量分析(市場規模算出)です。
新規事業等を考える場合、後者2つは実施しても、最初の定性分析を実施することが少ないのではないかと思いますし、特に大企業ではその傾向が強いと思います。

スタートアップの創業者は、自分たちのサービス提供する領域が好きでたまらないという人が一定数いますが、そういう人たちは特に意識しなくても、最初の定性分析を済ませている場合が多いです。大企業にもそういう方がいないわけではないと思いますが、多くの場合、自分たちの製品・サービスには精通していても、その目が顧客に向いていることは少ないのではないでしょうか?。

しっかりと定性分析をするのは難しいのですが、顧客をきちんと理解しないと、顧客に望まれる製品・サービスを作ることができないのは自明ともいえます。

「いかに顧客と同じ視点でものを見ることができるか」

価値観が多様になり、多彩な選択肢が提供されている環境では、このことが今ほど重要になっている時代はないかもしれません。

 

<書籍紹介>

『起業家はどこで選択を誤るのか
―スタートアップが必ず陥る9つのジレンマ』
ノーム・ワッサーマン(著) 小川 育男(訳)
英治出版 2014年

小川 育男Ikuo Ogawa

スカイライトコンサルティング株式会社
リードエキスパート

大阪大学基礎工学部生物工学科、同文学部哲学科を卒業後、株式会社電通国際情報サービス(現株式会社電通総研)にて、システムエンジニアとしてITサービスや業務情報系システムの開発、新技術や開発手法の研究開発に従事。スカイライトでは、事業立ち上げや事業企画のコンサルティングを実施しつつ、2007年からシード投資および投資先の事業・経営を支援。2014年頃から、世界各国を拠点にするVCと連携し、ロシア、東南アジア、欧州、アフリカ、中南米等の国外のスタートアップの調査・支援を行っている。